
猿橋勝子
日本の地球化学者、STEMの先駆者、運動者
猿橋勝子は、日本の地球化学者で、東京大学で理学博士号を取得した初めての女性として知られる。放射性物質の海洋や大気中での拡散に関する画期的な研究だけでなく、核軍縮を推進し、女性科学者の支援にも力を入れた。
1920年、東京で生まれた猿橋は子どもの頃から好奇心と、自然科学(特に物理学や数学)への強い関心を持っていた。最初は医師を目指していたが、最終的には新設された帝国女子理学専門学校で物理学を学ぶことに決めた。大学時代、中央気象台で三宅泰雄の指導の元、ポロニウムの研究を行った。ポロニウムはマリ・キュリーによって発見された元素であり、その研究は猿橋の放射線に対する情熱を呼び起こした。
戦時中、猿橋は軍のための仕事を断り、中央気象台の研究チームに加わった。そこで、大気中や降水中の放射性物質についての長年の研究を開始した。1945年の広島市と長崎市への原子爆弾投下で、猿橋は科学は平和に貢献すべきだと強い信念を抱くようになった。
1954年、アメリカのビキニ環礁で行われた水素爆弾実験による放射能汚染された「第五福竜丸」という漁船の事件がきっかけとなり、猿橋は海水での放射性粒⼦を調査した。アメリカの科学者が疑問視する中、彼女は放射性降下物が黒潮に乗って日本に到達したことを証明した。猿橋の精度の高い調査方法のおかげで、後からカリフォルニア州のスクリップス海洋研究所との共同研究にも携わった。
1957年、猿橋は東京大学で理学博士号を取得した初めての女性となった。翌年、彼女は世界女性会議に日本代表として参加し、核兵器禁止を訴えた。1961年、国際会議で海洋表面から8,000メートルの深さまで放射能が検出されたデータを発表し、海洋水循環に関する従来の理論を覆した。
その後も、潜水艦の原子炉からの廃棄物など、様々な汚染源について警鐘を鳴らし、平和運動や科学活動に積極的に関与した。また、女性の科学者を支援する活動にも力を入れ、1958年には「日本女性科学者の会」を設立した。引退後は「猿橋賞」と「女性科学者に明るい未来をの会」を立ち上げた。
2007年、87歳でこの世を去った。猿橋の生涯は、科学の精密さと社会貢献がいかに結びつくかを示すものであり、科学が世界を変える力を持つことを実証した。